インソールを買った

 自分の仕事は基本的に自販機補充したり管理したり新しく置いてくれ!って営業してるんですけどね、まあ結構な重さの商品をケースで運んだりカゴに集めて補充するんですよ。

 
 そうすると腰とか膝に負担がすごいの。しかも学生時代に何度か腰を傷めたこともあったり業務中に一度痛めたこともある。体幹が悪いのか靴のすり減り方もイビツ。
 そういったこともあって個人的に足回りの仕事用品はちょっと奮発してる。ホントはサポーターを買ったほうがいいんだろうけど。
 
 靴下はタビオの黒い無地を十足くらい買ってる。これは何も考えずに2つ取れば良いだけなんで便利。丈夫であまり破けないのが素敵。
 靴はABCマートで売ってたロックポートのエッセンシャルディテール。1万2000円くらいで買える。防水だしクッション性もめっちゃよくてデザインも定番で使いやすい。マドラスのウォーキングシューズから乗り換えた。あっちもいいものだったけど。
 
 そんな話を職場の人にしたら「インソールを替えてないの?」と言われた。クッションが弱い安物の靴でもインソール替えるとぜんぜん違うとのこと。
 今までインソールを替えたことのなかったものでその選択肢を検討もしたことなかった。そんなこともあってどうせ買うならいいものをという無駄遣いの精神でスポーツショップに探しに行ったところ姿勢を改善し、なんかかっこいいのとなると候補が2つになった
 

sidas.co.jp

ba2ne.com

 店員さんによるとシダスが若干細く、Ba2neが少し幅広とのこと。

 結局バネインソールのベーシックってやつを買った。靴のサイズが26.5センチなのでMサイズ買ったんだけどちょっと小さかった。買うならLサイズで調整した方がいい。

 

 小さかったこともあってもしかしたら微妙かなと思っていたがいい感じな気がする。ていうかインソール大事なんだなって気になった。まあまだそんなに使ってもいないけど。

 次回も買おうと思ったので次はちゃんとサイズを合わせようと思う。これ以外になんか姿勢を良くしたり腰を守るのってなるとサポーターになってくるんだろうか。うーむ。

 

 

 

 

ラノベが馬鹿にされるのは見た目の第一印象だよ

ラノベが馬鹿にされたり低俗だと思われている理由について記事を書いている人がいたので自分も書く。

 

ただオタクがラノベを馬鹿にする理由というよりアニメ・マンガ文化にあまり触らない一般人のイメージ形成の理由を考える。

 

結論としては表紙絵がアニメ的な絵柄だから。

というかほんとに見た目の第一印象だけで語られてると思う。だって中身読んでないのにいい大人が読むものじゃないって印象を持っている人多い。

第一印象が見た目で決まるのは※ただしイケメンに限るみたいな言葉もあるし就活セミナーとかでも鬱陶しいくらいに聞かされる。

そしてアニメ絵ってそれだけでなぜか低俗扱いされるよ。

twitterでもアニメアイコンってだけで人格攻撃する人もいるんだからホント見た目って大事。

 しかも世間の言うアニメ絵の範囲っておおざっぱで広い。オタクっぽいていうフワフワした括りで線引されてしまう。でも世界名作劇場的な絵柄ならまあセーフみたいな感じ。

 

 

イラストの力っていうか装丁の力は本当に大きくて仮に

ラノベがバカにされる理由はジャンル分けが雑ゆえに、低俗なものが悪目立ちしてしまうから

この記事で戦犯とされている「俺妹」のイラストレーターと装丁の担当が寄藤文平だったら多分パッとタイトルと表紙見てなんかのエッセイと勘違いしてるわ。

 

例えば「僕は友達が少ない」の表紙が

上杉忠弘 : 新潮クレスト・ブックス | 作品 | 東京イラストレーターズソサエティ (TIS)

これで明朝体でタイトル書かれてたらちょっと小洒落た女性向けみたいに見える。

「魔弾の王と戦姫」のイラスト担当が長野剛だったらごりごりの架空戦記ものって絶対思う。いや合ってるんだけど。

 

硬派とか言ってるガガガも傍から見れば他のレーベルと何も印象は変わらない。中身を見ればレーベルどころか作家一人ひとりの作風が違うのはわかるけどそもそも読まないんだ。だから表紙の第一印象で子供向けのエンタメ小説で大人が見るに耐えないものと思われる。

もちろんこれはライトノベル自体の歴史の浅さも理由だと考えられる。ラノベを読むようになった小中高生が増えて成長すれば偏見を持つ人は少しずつ減っていくと思われる。庶民の娯楽として発症した歌舞伎が今では重要無形文化財だ。いつかは格式高い文化になるかもしれない。

 

世間から見て許される表紙としたらミミズクと夜の王なんかは許されるんじゃないだろうか。今の時点ではライトノベルレーベルの読者のターゲティングはかなり狭い。メディアワークス文庫みたいなレーベルで層を増やそうとしているんだと思う。馬鹿にされるのがいやなら広く一般に偏見を持たれにくいイラストレーターやデザイナーに表紙を頼むしかないんじゃないだろうか。一般紙で活躍してるような中村佑介上田三根子とかなら偏見で見られることはない。手にとってもらえてから初めて中身を論じてもらえるようになるんだろう。それは今のメインターゲットから離れていくことでもあるのだろうけど。

感受性の低さへの焦りを感じること

ここ一年間なにかを表現することがどんどん減っている……

また情報や知識の収集、入力の量が格段に減っている。

 

もちろん外からの情報は山ほどあるんだけどそれをしっかりと見つめていない。

それらを処理できていない自分の感受性の低さに腹が立つ。

 

最近絵を描きたいと思ってスケッチブック持っても何も描きたいモチーフが出てこない。

以前なら展覧会に行ったり小説を読んだりして心のガソリンを足したものだが今は全然やれていない。

今年も面白い展覧会にはいくつか行った。だまし絵展とか最高に面白かった。でもあんな表現をしたいとは思えなかった。

今までは「この絵面白いな、こんな絵描きたい」だった。

今は「この絵面白いな」で止まってしまう。

 

少しでも何とかしたい。そのためにも描くことの習慣付けをしたい。

周りを見る観察眼をもっと高めていきたい。

今年の一つの目標にしとこう。

やりたいことリスト

今年やりたいことを100個挙げてみるって記事が面白かったので自分でも書いてみる。
無理だった50までしか挙げられなかった
1.ブログを毎週書く
2.小説を書く
3.毎日一枚落書きをする
4.月一枚背景含めた一枚絵を描く
5.百万円貯金する
6.オーダースーツをつくる
7.遅刻をしない
8.毎月50件新規飛び込みする
9.新規をとる
10.企画を月5件は考える
11.毎日手帳をつける
13.太らないようにする
14.早く起きる
15.毎週本を読む
16.書評をする
17.掃除をする
18.部屋を片付ける
19.英語の勉強をする
20.バーに行く
21.POPをかく
22.何かのブルーレイBOXを買う
23.一時間の勉強時間を作る
24.ネタのメモを取る
25.話のネタを増やす
26.展覧会に行く
27.東京に遊びに行く
28.新喜劇を見に行く
29.コミケに行く
30.十年使えるコートを買う
31.ペンタブを買う
32.プリンターを買う
33.アイロンをあてる
34.ティーテイスターをとる
35.お茶を入れる習慣を作る
36.ヘッドホンを買う
37.締め切りを守る
38.ストレッチをする
39.投資を始める
40.月一で観光地に旅行する
41.行きつけの店をつくる
42.オーブントースターを買う
43.映画を映画館でみる
44.いろいろなウイスキーでウイスキーバックをつくる
45.ツマミのレパートリーを増やす
46.整理整頓をする
47.家事を手伝う
48.電子書籍を増やす
49.いいものを買う
50.新しいことに挑戦する

自己表現を作品として形にすれば芸術家なのか。芸術家は法を超越するのか。

撤去しなければ検挙するといわれ、やむなく展示変更となった愛知県美術館展示について写真家・鷹野隆大さんに聞く|「『知』に対する行政府の安易な介入はその暴力をエスカレートさせていく危険を孕んでいる」 - 骰子の眼 - webDICE

 

 上記の記事やろくでなし子さんの逮捕の一件を見て唐突に書きたくなった。

 正直今回の彼らの自己表現を私は芸術と呼ぶに足り得ないと断じる。彼らの作品を生で見たり作品制作にいたるコンテキストを知ってるわけではない。彼らの稚拙な自己表現を芸術という強い概念を纏わせて当局を批判するというやり方が小汚いと感じる感情的な点が強いことは否めない。それでも芸術とは呼べないのである。

 

 

 彼らの自己表現の中でちんこやまんこを露出することの必然性があるのかもしれないが彼らの表現における芸術性の面でちんこやまんこを露出する必然性があるのだろうか。

 

 正直なところ自身の感受性の低さもあるが彼らの作品を見ても芸術性というものを感じ取ることができなかった。もちろん芸術性という言葉自体の定義も個人個人で微妙に違うだろうしこの作品から芸術性を感じ取る人も多数存在するのだろう。

 しかしながらその芸術性を表現する際に果たしてちんことまんこを露出するのがもっともよい方法だったのだろうか。私にはそう思えない。芸術性というよりメッセージ性といったほうがいいかもしれないがより良い伝え方がなかったのか。

 

 猥褻物をめぐる線引に関して司法は長い年月をかけて慎重に動かし続けている。だからこそ記事でも引用されてる黒田清輝の事件といい昔であれば処罰されていたのが今では許されている。今回の事件はそういった線引への無理解もあるのではないだろうか。というより上記の記事の人はそもそもそのような線引自体必要ないと考えているようだが。

 

僕としては、「猥褻物」が犯罪になるということ自体が意味不明で理解できません。この成熟した社会で、裸体が何の破壊力も持たないことは、わかりきったことですから。

 

 世の中にはいきなりちんこやまんこを強制的に見せられてトラウマになったりする人もいるんやで?そういう弱い人たちのことはどうでもええのん?見たくない人は見なければええやんって言いたいのん?美術館内部を治外法権てのもどゆこと?

 司法はそんな人達を守るためにある。そのため猥褻物に関して強気で規制することがある。それが表現の自由と争うことがままあるし表現者として譲ってはいけないところでもある。

 

 あの程度の理解とあのレベルの作品でそんなデリケートな部分を土足で踏み込み荒らしまわしていくのを見ると苦々しい気持ちになる。

絵を描く時に気をつけていること

独学かつ練習不足で下手くそな自分なりに気をつけていること。

できれば他の人がどんなアプローチをしてるのか知りたいよね。

 

 

描きたいものを決める。

 ここは結構大雑把。展覧会や他人の作品など外部の刺激から描きたいって思ったり、こういうのを描きたいって思ったのを描く。それは線であったり、構図であったり、色だったり、モチーフだったり色々。

 

作品のコアとなるものを考える。

 ここが自分にとって重要なところ。なぜそれを描きたくなったのかをとにかく考える。ここで考えた結果、最初のイメージと変わっても全然いい。むしろ描きたいものが明確化したから。できれば言語化したい。それができれば他の人に意見を求めることができるので。言語化することで枠が決まってしまい広がりがなくなるかもしれない。

 ただ自分の場合、言語化して枠を強化することでブレない軸をつくるほうが大事だと考えてる。それに他人から意見をもらうことで枠を超えることはできると思ってる。

 

それをどのように表現するのかを考える。

 コアを決めたならそれをどのようにして表現するのが最も効果的なのかを考える。どんな雰囲気か?構図は?色使いは?タッチは?質感は?マチエールを使うのか?

 僕の場合、表現の基準は人が見て凄いと思ってくれるかどうかってところ。自分は承認欲求が強い方なので評価が気になります。描きたかったものが否定されるのは悲しいよね……。逆に他人の評価より自分の表現を追求する人は、いわゆる芸術家と呼ばれるものだと思う。

 

どのようにその表現を達成するのかを考える。

 ここまでで大体の全体像は出来上がっている。この段階は自分の技量を確認し、必要なスキルが有れば磨く。必要であれば資料を準備する。もちろん画材も用意する。

 スキルを磨く時間や、画材を用意するお金がないといった実現可能性がない場合は、もう一度上に戻って別のアプローチを考える。

 

実際に描く。

 おおまかな構図と全体像から描く。案外描いてみるとなんか違うってなる。適宜軌道修正。全体像を構築してから、細かいところを描く。できない。つい変なとこ細かく時間かける。死ぬ。

 

完成・反省。

 ダメなところがいっぱい出る。評価されたいのに自分でも良くないってわかる。なんでダメなのか人の意見聞いたり、自分で考える。無様な姿を晒し続けたくないので練習する。

 おわり。

 

後半が一気にネガティブになってしまった。まあいつものことだし。

一つ一つの工程をがっちりやってるわけじゃないけどこの流れは意識してる。あと締め切りマジ大事。締め切りなくてもコンスタントに作品発表できるような自己管理しっかりした人ほんとうに尊敬できる。自分ももっともっとうまくなりたい。