自己表現を作品として形にすれば芸術家なのか。芸術家は法を超越するのか。

撤去しなければ検挙するといわれ、やむなく展示変更となった愛知県美術館展示について写真家・鷹野隆大さんに聞く|「『知』に対する行政府の安易な介入はその暴力をエスカレートさせていく危険を孕んでいる」 - 骰子の眼 - webDICE

 

 上記の記事やろくでなし子さんの逮捕の一件を見て唐突に書きたくなった。

 正直今回の彼らの自己表現を私は芸術と呼ぶに足り得ないと断じる。彼らの作品を生で見たり作品制作にいたるコンテキストを知ってるわけではない。彼らの稚拙な自己表現を芸術という強い概念を纏わせて当局を批判するというやり方が小汚いと感じる感情的な点が強いことは否めない。それでも芸術とは呼べないのである。

 

 

 彼らの自己表現の中でちんこやまんこを露出することの必然性があるのかもしれないが彼らの表現における芸術性の面でちんこやまんこを露出する必然性があるのだろうか。

 

 正直なところ自身の感受性の低さもあるが彼らの作品を見ても芸術性というものを感じ取ることができなかった。もちろん芸術性という言葉自体の定義も個人個人で微妙に違うだろうしこの作品から芸術性を感じ取る人も多数存在するのだろう。

 しかしながらその芸術性を表現する際に果たしてちんことまんこを露出するのがもっともよい方法だったのだろうか。私にはそう思えない。芸術性というよりメッセージ性といったほうがいいかもしれないがより良い伝え方がなかったのか。

 

 猥褻物をめぐる線引に関して司法は長い年月をかけて慎重に動かし続けている。だからこそ記事でも引用されてる黒田清輝の事件といい昔であれば処罰されていたのが今では許されている。今回の事件はそういった線引への無理解もあるのではないだろうか。というより上記の記事の人はそもそもそのような線引自体必要ないと考えているようだが。

 

僕としては、「猥褻物」が犯罪になるということ自体が意味不明で理解できません。この成熟した社会で、裸体が何の破壊力も持たないことは、わかりきったことですから。

 

 世の中にはいきなりちんこやまんこを強制的に見せられてトラウマになったりする人もいるんやで?そういう弱い人たちのことはどうでもええのん?見たくない人は見なければええやんって言いたいのん?美術館内部を治外法権てのもどゆこと?

 司法はそんな人達を守るためにある。そのため猥褻物に関して強気で規制することがある。それが表現の自由と争うことがままあるし表現者として譲ってはいけないところでもある。

 

 あの程度の理解とあのレベルの作品でそんなデリケートな部分を土足で踏み込み荒らしまわしていくのを見ると苦々しい気持ちになる。