冤罪減らすより逮捕の陳腐化による冤罪の陳腐化
冤罪事件の話題を見た。
この話題を見て連想したことがある。それは容疑者段階での報道で実名を出すことについての疑問を表す人がいたことである。
この記事の結論として私は逮捕という行動とそれに伴う一連の流れが陳腐化することで冤罪抑制と犯罪の抑制が出来ないかということである。
報道とその反応をみて逮捕という行動の重みというものを改めて知らされる。それは一般社会にとっても警察機構にとっても重たいものだということ。
逮捕した以上、警察は犯人と立証するために躍起になって追い詰める。なぜなら冤罪であれば世間は逮捕した警察に対して厳しく糾弾するからだ。面子を潰されたくない警察はもはや犯人にしなければならなくなる。
冤罪で捕らわれることが恐ろしいのは理解できるし権力機構の暴走が危険なこともわかる。
ただ私は犯人が捕まらず自分の周辺にのさばる可能性の方が怖いのである。
共謀罪にしてもそうなのだが権力機構の暴走が危険視されるのは当然であるがそれとしてテロに対する対策ももっとしてほしいと思う。
そのために警察はもっと気軽に逮捕して気軽に間違えたから釈放するね許してちょみたいに言える空気をつくることで緩和できないかと考える。
それには世間の注目が罪状を突きつけられる瞬間ではなく判決を下される瞬間(少なくとも起訴されて舞台が裁判所になった瞬間)にこそ向けられる必要があると考える。
つまり警察・検察(行政)ではなく裁判(司法)の責任に注目することである
警察による逮捕の陳腐化と司法による判決責任の更なる重大化によって冤罪影響の低減と冤罪自体の抑制ができないかと考える。
拘留により行動を制限されることは分かるがそれを社会治安のコストとしてカジュアルに認められる世の中になれないか。それには絶対的な司法の独立性と透明性と正確性が必要なので現在それをできる国家及び共同体は存在しないが。